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『毎度毎度の物語』


野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)

  • 作者: 大岡 昇平
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1954/05/12
  • メディア: 文庫



また政治家と金の問題が発覚した。
今度は『アジェンダ』のおじさんだ。
『全く、政治家達は懲りることがないのか』と呆れもするし、半ば感心もする。
たぶん他にもいるよ。
ネズミとかゴキブリみたく『一匹見つけたら、その20倍はいると考えなくてはなりません!』って、
そんな世界かも・・・。

個人的には今回の事件、本人が辞めようが自殺しようが関係なく、
どーでもいいことだと思っている。
従って、今回のブログの論点もそこにはない。
この際、他に考えなくてはならないことがあると思うのだ。
二つの論点からこの件を論じてみたい。


第一の論点。
わが国は民主主義国家である。
内情がどうかはともかく、建前上は民主主義国家である。
だから政治家の多くは選挙によって選ばれる。
我々国民が与えられているのは、本来参政権である。
選挙権は参政権を実現する為の、便宜的な、いわば道具に過ぎない。
選挙における投票行為は、
我々が生来持っている自らの権利を他の誰かに預ける行為に他ならない。
だから、選挙で当選した人は投票してくれた人の権利を背負い、
意見を代表して議場に立つのだ。

さて、当選した候補者は真の意味の代表といえるか?
例えば10万人が投票してくれたとして、
その10万人すべての名前や、顔や、考え方を知悉しているわけではあるまい。
それは、無理だ。
ならば何を持ってその10万人の代表たるといえるのか?
突き詰めて考えると、それは『感性』しかあるまい。
市井に生まれ、市井に育ち、市井の空気を吸って生きていれば、
自然と感性も近いものになるだろう。
ならば同じように笑い、悲しみ、怒ることが出来るだろう。
その感性で持って政治に取り組み政策に反映するならば、
それは民主主義の成功例といえる。
立派な民衆の代表といえる。

しかし、である。
その感性の中で大いに重要な要素が金銭感覚であると思うのだ。
いのっち(またの名を猪瀬元都知事)の時もそうであったが、
政治家の金銭感覚は我々一般庶民の感覚から大きく乖離している。
さほど親しくもない人と五千万円ものお金を貸し借りする感覚も、
昵懇(だったのかな?)であるにせよ八億円ものお金を借りる感覚も、
全く持って分からない。
私的に八億円ものお金を借りる必要性があったと言う事情も、
それを何に使ったのかも、想像すら出来ない。
俺なんか、八億もお金があったら仕事やめて遊んで暮らすけどね。

斯様に金銭感覚が違って、民意を代弁できるのか?
真に国民の代表であるといえるのか?
少なくとも俺にはこんな連中に、
慎ましく暮らしている庶民の負担を増やす決定を下す権利があるとは思えない。
あえて具体的な方策は記さないが、政治家の金銭感覚を庶民に近づける努力が必要であると思う。


第二の論点。
政治と金の問題は繰り返されている。
今回は週刊誌のスクープ記事らしいが、
この種の問題はマスコミにおいしいネタを供給する以外にメリットはないのだ。
国にとっても、我々国民にとっても。
もうそろそろ、卒業しようではないか。
このような問題が出ないような仕組みづくりを考えるべきだ。
でないといつまで経っても進歩がない。

なぜこのような問題が繰り返されるのか?
それは恐らく、政治家達が自らにとって都合のいい仕組みにしているからだ。
我々国民が監視をし易いような仕組みに改めるべきなのだ。
いや、そもそも自らの待遇を自ら決めること自体がおかしいのだ。
お金に関してクリーンであることが当然であり、
ダーティになることが困難である仕組み作りはきっと出来るはず。
こちらもあえて私案を提示することはしない。
もしもこのブログに何か感じるところがあったなら、皆さんで考えてみてほしい。

重ねて言うが、我々に与えられているのは参政権なのだ。
政治の不都合には口を出す権利があるし、
また、そうしてこそ国民の責務を果たせるのだと考える。





今週の一曲
スターダスト☆レビュー『木蓮の涙』



SOLA

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  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: UP-FRONT WORKS
  • 発売日: 2011/02/23
  • メディア: CD



『修正してやる!』


楊令伝 一 玄旗の章 (集英社文庫)

楊令伝 一 玄旗の章 (集英社文庫)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2011/06/30
  • メディア: Kindle版



夜になるとブンブンと馬鹿共が五月蝿い。
あ、馬鹿共じゃなくて暴走族って言うのか。
でも、まぁ、大して変わらないな。
必要以上の騒音を出して、人様に迷惑をかけて、自己陶酔で喜んでいるだけだから、
馬鹿といわれても仕方あるまい。
この間田舎に帰ったときも五月蝿かったから、
この馬鹿共はゴキブリ同様日本全土に生息しているらしい。
この連中の存在は単に迷惑なだけでなく、社会に大いなる無駄を撒き散らす。
ガソリンの無駄、こいつらを駆除する為の経費と人件費も無駄、
環境にも悪影響を与える・・・。
さらに辛辣な言い方をすれば、こいつらの人生そのものが無駄である。
乱暴な言い方だが、こいつらがいなくなったほうが社会に利益をもたらす。
そんな連中の人生なんて無駄だろ、無駄。

命の価値は平等だが、魂の価値は一人ひとり違う。
高貴なる魂はその人の思想・言動による。
劣悪なる魂も、また同様。
要するに己の価値は己の生き方で決まるのだ。
無駄だといわれることが悔しいなら、人に恥じない生き方をすれば良い。
ただそれだけのことだ。

ありていに言えば、俺はこういう輩は嫌いだ。
一方で社会に守られながら、他方で社会のルールに唾をする。
そんなものは甘え以外の何物でもない。
社会のルールを破るなら、そこから生じるリスクはすべて自分で引き受ける。
ルールを破ることによって罰せられるなら、それも甘んじて受ける。
それが一人前の男というものだ。

俺は思う。
この馬鹿共を、社会はまともに扱いすぎているのではないかと。
結果的に馬鹿共の甘えを追認しているのではないかと。
甘えを追認することで助長し、ひいては歪んだ人格形成に寄与しているのではないかと。
歪んだ人格は、事の大小、早いか遅いかの違いはあってもいつか社会に仇をなす。
この馬鹿共の一部でも将来的に反社会勢力の構成員になるとしたら、
あるいはそうならなくても将来的に彼ら独自の準反社会的集団を形成するとしたら・・・。
そうなってから対処するよりも、そうなる前に対策を講じるのが合理的だろう。
ルールを破った馬鹿共には、社会は厳とした態度で臨むべきなのだ。
そこで俺は、『非行青少年の自衛隊への強制入隊』を提案する。


暴走族だけに限ったことではなく、ヤンチャが過ぎる連中を非行の事実で捕まえても、
現状では少年法で裁かれて、重くても少年院止まりだろう。
手元に良い資料がないので感覚的表記にとどまってしまうが、
個人的には少年院の効果には疑問を持っている。
非行の種類によっては更生率は高いのかも知れないが、
この種の非行には効果が薄いのではないかと思っている。
本人が『箔がついた』ぐらいにしか捕らえていなければ、時間と税金の無駄だろう。
もちろん、そこには真の意味での更生(改心して真っ当に生きる)などありはしない。

一つの選択肢としてでも良いから自衛隊への入隊を科すことが出来れば、
連中にとってそれは大きな転機になるだろう。
入隊を拒否すればヘタレ扱いされるし、入隊すれば心身ともに鍛えられる。
その方が連中の為にも良いと思うのだ。
見方を変えれば連中はかわいそうなヤツらなのだ。
輝ける青春期の真っ只中にいるのに、本気で取り組める何かを持っていないのだから。
それが勉強にしろ、スポーツにしろ、あるいは将来の夢に向かってでも良い。
全力で何かに向かっている人間は曲がった生き方をしないのだ。
だから自衛隊で鍛えられて、『国防』でも良いし、その他の何かでもいいのだけれど、
自分の生きる道標を見出せれば、連中にとっても良いことだ。

もちろん最初は言うことを聞かないだろう。
反抗的な態度をとるだろう。
甘えや、間違った考えは強制的にでも正さなければならない。
そのときは、『修正してやる!』(by カミーユ・ビダン)と言って、
鉄拳や精神注入棒を使うと良いだろう。
社会はこの暴力を許容しなければならない。
真っ当に生きている人が理不尽な暴力によって不幸になることを良しとしないならば。

まぁ、なんにせよ、静かな夜が来るといいね。




今週の一曲
浜田 省吾 『思い出のファイヤー・ストーム』
『J BOY』はやはりオリジナルに限るな・・・。



J.BOY

J.BOY

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ソニーレコード
  • 発売日: 1999/09/29
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